長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

かわいそうなオリンピック

東京都のコロナ新規感染者数が、ついに3,000人を超えて

全国でも9,000人を超えました。

それでも首相は「オリンピックを中止する選択肢はない」と答えたそうです。

もっと早い段階で、何とか出来なかったのでしょうか?

 

今から2ヶ月以上前、今年の5月12日に発売された『週刊文春』5月20日号に、

ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが特別寄稿「悲しき五輪」という題の

4ページのー文章が掲載されていたことを知って、すぐに読んでみました。

 

沢木さんはこれまでいくつもオリンピックを取材してきました。

ところが、今回の東京オリンピックについては、

 

私は、このオリンピックに限って、競技場に行き、

取材をして書きたい、

つまりその出来事に立ち合いたいという

内から湧き上がる強い思いが

生まれてこないことが不思議だった。

なぜだろう?考えているうちに、

ひとつ思い至ることがあった。

このオリンピックに、開催の『大義』がないからではないか、と。

大義、などという言葉が大仰すぎるというなら、

意義、意味と言い換えてもよい。

重要なのは、その国のその都市で生きている人々が

どれだけ開催を望んでいるかということだ。

(中略)

それにしても、この2度目の東京大会ほど惨めなオリンピックは、

かつてなかったかもしれない。

負の要素があとからあとから吹き出し、降り注いでくる。

中止になれば、その準備に費やされた莫大な金と労力が無になる。

強行されたとしても、外国からの支持や支援は希薄な上に、

国内においても国民ばかりか東京都民ですら

熱い気持ちを向けられなくなっている。

実に都民の七割以上が開催に反対しているらしいのだ。

なんとかわいそうなオリンピックなのだろう

 

振り返れば、この時、5月の連休後ぐらいが開催を見合わせる

ことが出来た最後のチャンスだったのかもしれません。

 

不要になってしまったボランティア用のおにぎりやお弁当が

毎日、数千食分も大量に廃棄されているそうです。

自転車のロードレースでは、交通規制によって不便を強いておいて、

沿道での観戦は控えてくださいと呼び掛けています。

恐らく、札幌でのマラソン競歩も同じでしょう。

そして、お台場の潮風公園には、40億円も掛けて、

12,000人も収容できるビーチバレーの会場とスタンドが作られました。

競技日数はわずか2週間だけのために(パラリンピックでは使いません)

2019年8月から丸2年間、公園に立ち入りが出来ない状態です。

それも無観客となり、まったくの無駄になりました。

 

いったい、誰の為の、何の為のオリンピックなのでしょうか?