長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

鏡で自分の顔を見る

このブログを書き始めて、あらためて気が付いたことがあります。それは、自分の心の中を、文章化することの難しさです。春樹さんが言うように、辛くても、自分に向き合って、深く掘り下げないとダメなんだと思います。

ヒーローにも、悲劇の主人公にもしないで、自分のことを、淡々と書くのって、たぶん、それなりの技術が必要だと思います。今の若い人たちは、自分自身を表現することに、まったくの躊躇いとか、違和感は感じたりはしないのでしょうか?

これはこれでいい気分だった。自分の戦果を確認し、勲章を磨いているような気分だった。だからトイレに立ったついでに、洗面所の大きな鏡に自分を映して、笑顔をつくってみたりしたのだ。恋愛中の女の子が、機会を見つけては自分の顔を鏡や地下鉄の窓ガラスに映して笑顔を浮かべてみるように。あの気持ちがやっと判った。あれは幸せだから笑ってみるのだ。自分の顔に幸せが浮かんでいるのをその目で確かめたいからやっていることだったのだ。今の栗橋浩美もまったく同じ気持ちだった。幸せで、自分に誇りを持っていた。
鏡は人を映す――顔を映し、姿を映し、瞳の色を映し、その輝きを映す。それはただの物理的な作用で、映したからといって鏡がその人の何を知るわけでもない。鏡は無機質で無関心だ。だから人は、安心してその前で自分をさらけ出すことができる。自分を点検することができる。悦びや誇りの想い、世間への遠慮や謙譲の念に縛られて押し隠すことなく、おおらかに解き放つことができるのだ。もしもこの世に鏡が存在せず、互いに互いの顔を点検しあったり、自分で自分を観察したりするだけで生きていかなければならないとしたら、人は今よりももっと深く自分のことを点検しなければ気が済まず、安心できず、気を許すこともできなくなって、生きていくのがずっとずっと困難になるだろう――

この文章は、宮部みゆきさんの『模倣犯』からの引用です。後半の「もしもこの世に〜」は、この作品が書かれたときには、まだインターネットの普及が始まったばかりで、今のように、iPhoneも、SNSもありませんでした。なんか、今の時代を予言している気がします。インスタやFacebookで、毎日、何かを発信している人は、安心して、他人に気を許して、楽に生きて、そこに見えている(見せている)、「自分の姿」に誇りを持ち、幸せを実感しているのでしょうか?

あの時代(「模倣犯」が書かれたのは、1995~1999年です)、自分は、入社5〜9年目でした。子どもらも、まだ小さかったので、少年が犬の散歩の途中で、若い女性の右腕を公園のゴミ箱で発見する始まりに、とてもショックを受けたことを覚えています。その後、2002年に中居正広くんが主演、森田芳光監督で、映画が作られました。ロケ地は、江東区にある公園の大きな橋でした。16年経った今でも、あの橋を見るたびに、その場面を思い出します。ちなみに、映画のラストシーンも、同じ公園の橋でした。原作とは、まったく違う結末に、とても驚きました。余談ですが、あの子を、山崎努さんは、引き取って育てたのでしょうか?ウチの3番目が、まさに同じ歳で、今年高校生になりました←映画が観ていない人には、???ですよね。スミマセン) この映画の結末は、何か大きな宿題を、自分に与えられた気がしました。(この話は、また今度、別のときにします)

最近の「やまゆり園」や「座間の事件」は、あまりに悲し過ぎます。凶行に及んだ犯人は、栗橋浩美のように、鏡を見て、そこに幸せに笑っている自分の笑顔を確認して、自分に誇りをもったのでしょうか?では、被害者一人一人の顔には、何も見えなかったのでしょうか?