長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

人が生きるということ。何があっても生き続けるということ。

前に、WOWOWで放送されたものを録画してあった、西川美和監督の映画『永い言い訳』を観ました。
その後に、ご自身が書かれた原作小説(ノベルスではなく、最初に2015年2月に小説を発表し、同年4月に山本周五郎賞候補、同じく6月に直木賞候補になります。それから映画が撮影され、翌年10月に公開されました)を読みました。

浦賀和宏さんの『HEAVEN』と『HELL』の時も書きましたが、この作品も、読んでから観るか、観てから読むか、その順番で、それぞれの印象が、まったく違うものになると思いました。自分は、たまたま観てから読みました。映画と小説、それぞれまったく異なる作品として、ともに秀逸で、ただただ西川美和さんの映像と文章の表現力に、圧倒されました(さらに言えば、脚本もご自身が手掛けています!)。登場人物が発する台詞が、どちらも、ほぼ同じでありながら、全然、受ける印象が違います。その結果、それぞれの作品の主題が変わってきます。

以下は、幸夫と真平のふたりが、陽一を迎えに行く電車の中での台詞です。

「ぼく、バス事故が起きた後、何でパパじゃなくて、ママなんだよ、思ったことあるんだ」
「それは、誰よりもパパがそう思って来たことだよ。君が思うまでもない。きっと最初から、君の百倍も千倍も、そう思って来た。どうせ死ぬなら何で自分じゃなかったかって、ずっとひとりで苛まれながら、それでも必死で、ハンドル握って、踏ん張ってきたんだ。解るよな」
「でも、人間のこころだからさ、強いけど、弱いんだよ。ぽきっと折れるときもあるんだ。大人になっても、親になっても、君らのこと、抱きしめても足らないくらい大事でも。解ってくれるか」
「大丈夫だ、真ちゃん。みんな、生きてりゃ色々思うもの。汚いことも、口に出来ないようなひどいことだって。だからって、思ったことがいちいち現実になったりするわけじゃない。ぼくらはね、そんなに自分の思い通りには世界を動かせないよ。だからもう自分を責めなくていい。だけど、自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいなる。ぼくみたいに、愛していいひとが、誰も居ない人生になる。簡単に、離れるわけないと思ってても、離れる時は、一瞬だ。そうでしょう?」
「今はぼくもわかる。だからちゃんと大事に、握ってて。君らは。絶対」

小説ならば、台詞の前後にその人の内心の言葉が書かれているので、発言の主旨や話す相手に期待することが、ハッキリと読者に示されます。それに対して、映像の方は、観る者の経験や価値観によって、かなり自由な受け取りが可能なのでは、ないのでしょうか?
自分は、直前に馳星周さんの作品を読んだせいか、映画では“家族の絆”“過去を切り離して今を生きる”“人としての成長”など、明るく前向きなメッセージを受け取りました。それに対して、小説は“遺された者”“何があっても生き続ける”“失った時間への後悔”など、人生の悲しみや深さを感じました。
なので、前者では、今、自分の目の前に居る家族や、自分が大事に想うひとのことを考えました。一方、後者では、既に亡くなって居ない父や母、今はもう何年も会わなくなった人のことを思い浮かべました。

あらためて、映画は、主演の本木雅弘さん、深津絵里さん、竹原ピストルさんの配役が、絶妙だと思いました。先に台詞があったにも関わらず、いかにもそれぞれが口にしそうなほど、見事にイメージがハマっていました(でも、先に原作を読んで、既に登場人物のイメージを持ってたら、逆に違和感を感じたのかもしれません)。それと、映像による四季の移ろい、上手くいってた“家族”が、バラバラになってしまう転換時に、“シャボン玉が弾け”“打ち上げ花火”が、すごく良かったです。あと、音楽もピッタリでした。オープニングの軽快な曲、手嶌葵さんの優しい歌声の挿入歌、静かに流れるエンディングのクラシック、どれも印象的で心地よく、明るい気持ちにさせます(正直、エンディングに竹原ピストルさんの歌が流れたら、どうしようかとドキドキしました)。

小説の方では、映画には登場しない弁護士の言葉、それと最後に書かれた、陽一から妻(ゆき)へ、そして幸夫から妻(きみ)への手紙、西川美和さんが伝えたいこと、その“思い”が文章から、溢れ出てきます。
題名が“長い”ではなく『“永い”言い訳』の理由。夏子が携帯電話に遺した未送信メールの意味。
そして、幸夫の言葉。

「つくづく思うよ。他者のないところに人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ」

そのことを気付くため、人は生き続けるのかもしれません。そんな気がします。