長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

人が死ぬということ。命の終わりを決めるということ。

前にWOWOWで放送していたのを録画して、周防正行監督の『終の信託』を観ました。その後に、原作である朔立木さんの小説を読みました。映画は2時間半近い大作です。一方原作は、文庫本で140ページしかありません。自分の正直な感想としては、周防正行監督には大変申し訳ないとは思いますが、小説の方が、真っ直ぐと主題が伝わってきて、すごく良いと思いました。

自分には、映画の方でわざわざ追加したいくつかの場面が、どれも余分だと感じました(あくまで個人的な好みというか、勝手な主観なのですが)。草刈民代さんのベッドシーンは、無くても良いと思いました(話題になって、注目を集める効果は間違いなくありましたが)。もっと別な形で、喪失感を表現出来るように思います。また、病院の中庭で話すシーン、川の堤防で偶然行きあって河原を歩いた後に車内で話すシーン、どちらも話のポイントになる重要な場面なのですが、原作ではすべて病室でのやりとりでした。その方が、2人の関係が、家族や社会から閉じられたものだと思えました。映像に変化がなくなり、単調で、暗い場面ばかりになってしまうので、映画では難しいのでしょう。不注意にお酒と睡眠薬を飲んでしまうのと、死のうとしたけど失敗するのでは、意味がまったく違うと思います(もしかすると、医師が睡眠薬を飲んで自殺未遂だと、映倫に引っ掛けるとか)。小説では、救急搬送されて蘇生処置をしたのは、他の医師でした。さらには、病院内での立場やセクハラ、内部告発のことや、以前に別の患者の気管内チューブを外したことがあって、外せばそのまま静かに最期を迎えられると予想していたのに暴れて苦しみ出し、パニックになり我を忘れたことも書かれていました。せっかく、緊迫した空気に水を挿してしまったトイレのシーン(2回とも)も無い方が良いと思います。

江木は取り乱して泣き叫んだ。この人のこんな姿を、折井綾乃は初めて見た。
「江木さんー江木さん」綾乃も泣いていた。どうして、人は死ぬのだろう。死ぬ前に苦しまなければならないのだろう。とくに喘息での死は苦しい。どうしてこの人もまた、苦しんで死なければならないのだろう。(中略)医者はなんと無力なんだろう。なぜ 、医者などになったのだろう。いつでも患者が死ぬ時に感じる無力感と耐えがたい辛さ。これまで堆積してきたそのすべての苦しみが、このあと来るだろう江木泰三の苦しみと重なって綾乃を押しつぶした。でも、自分は死ぬ者ではない。自分は医者だ。しっかりしなければ。そう思って、綾乃は自分の大切な患者の手を取って両手で包んだ。しかし、何も言うことができず、涙を止めることができなかった。

映画のキャスティングも、自分には、しっくりきませんでした。医師(折井綾乃)役の草刈民代さんも、患者(江木泰三)役の役所広司さんも、感情を抑えた落ち着いた演技で見応えはありましたが、存在感というか、迫力があり過ぎて、内面の葛藤や覚悟、不安、心の揺れが伝わらないように思いました。“気の強さ”と“自尊心”“辛抱強さ”と“無力感”をよりハッキリと演じるのなら、例えば、天海祐希さんや真矢みきさん(米倉涼子さんは失敗しないからダメですね)、小日向文世さんや阿部寛さんではどうでしょうか?浅野忠信さんと役所広司さんが、役が入れ違っていたらとてもオモシロイかったかもしれません。以前にも書きましたが、映像が観る側が受け取るイメージによって、印象に巾があるのに対して、文章は的確に伝わります。それは、仕方がないことですが、だからこそキャスティングや場面設定は、とても重要だと思います。なので、自分としては映画は残念でした。もしかすると、周防正行監督は、“医師”の立場と“女”の感情を、区別するために、あえて病室以外のシーンを設定して、“患者”と“医師”ではない“男”と“女”のラブストーリーを強調したのかもしれません。『Shall we ダンス?』を観て、草刈民代さんに憧れる役所広司さんに、ハマった人には、この配役がしっくり来るのでしょうか?

検事(塚原透)役の大沢たかおさんは、良かったと思います。ですが、小説の方が検事が置かれている状況や野心、悪意ある卑劣な取調べ、捻れた感情が、より鮮明に書かれています(演技や台詞、書記官のトイレでの会話だけでは、あまり伝わってきません)。そして小説の最後は、検事が自ら、翌日の朝刊に間に合う時間に、得意気に記者クラブに被疑者逮捕を知らせる電話をする場面で終わります。それは、象徴的に“人間が人間を裁くこと”の是非、矛盾、そして“人間の弱さ”が、浮かび上がってきます。

泣き叫ぶ被疑者を見ながら塚原透は考えていた。今日の調べは、思いのほか手間取った。一応、被疑者に言わせなければならないポイントは、向けて(誘導尋問して)見て、どういう反応をするかわかったが、この調子じゃ、これから今日中に、こっちの思うような調書に署名を取るのは無理だろうな。ま、今日のところは、外形的な事実の自白だけで仕方ない。(中略)ただ最後に駄目押しだ。被疑者が今言っているのこと、苦しませるに忍びないからでも、理由はなんでもいい、自分が意識的に患者を殺したんだと、はっきり言わせておいて、逮捕状を執行する。記者発表はそれだけで、充分だ。そうしておいて、明日早くから呼び出して調べを続けよう。しかし、この被疑者は強情だ。被疑者が元気なうちは、まだ押し問答の調べだろう。場合によっては、何日も思うような調書が巻けなくて、毎日調べ続けて、疲れさせ、言うことを聞かせなければならないタイプかもしれないな。勾留は10日では足りない。勾留延長して20日、逮捕留置も含めて22日は当然必要だ。ま、こんな調べも、よくあるパターンさ。今日はいろいろ言いたい放題を言っていたが、なに、最後はこのおれが勝つ。

人は誰しも、いつか、必ず死にます。死なない人は居ません。なので、自分が望むときに、望む場所で、望んだように死ねる人は、稀有だと思います。逆に考えると、自分で自分の命の終わりを決められる(信頼する人に決めて貰える)ことは、これ以上ない幸せなのかもしれません。その一方で、自分の終わりを、妻にも子どもたちにも託すことが出来ないのは、一番の不幸だと言えるかもしれません。ちなみに、原作は、文庫化の際に改題されて『終の信託』になりました。元の題名は『命の終わりを決めるとき』です。自分は元の題名の方が好きです。

原作者の朔立木さんは、現役の法律家(一説では、高名な女性の刑事弁護士だとか)とのことです。人の気持ちが、理屈どおりでなく、その時の状況や湧き上がる衝動的な感情によって、大きく振れることを分かっていて、それをそのまま文章で表現出来る方です。興味があるので、続けて朔立木さんの作品を読んでみたいと思います。