長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

心の優しい人は、心の強い人だと思います。

この週末に、WOWOWで放送された行定勲監督の『ナラタージュ』を観ました。
島本理生さんの原作を読んだのは、だいぶ前のことです。さすがに10年は経っていないと思います。
それでも、初めて読んだ島本理生さんの作品だったので、5年以上は前だったと思います。

さすがに、細かい設定や話の展開や台詞などは、正直あまり覚えていませんが、原作の“葉山先生”の印象は“ずるく”て“女々しく”て“弱い”と感じたことを覚えています。それが、行定監督の映画だと、松潤の感情を極力抑えた演技と、全体的に静かな演出によって、かなり違った印象を受けました。この映画は、恐らく観た人のその時の心境によって、賛否両論、好き嫌いがハッキリ分かれると思います。でも自分は、松潤の“葉山先生”は、とても“優しく”て“強く”て“思い遣り”があり、本当に“泉”を大切に思っていたんだと、感じました。

その一方で“小野君”は、男の自分から見ても、“そりゃダメだろう”の連続でした。自分にも、身に覚えがありますが、とにかく“小野君”は真っ直ぐで、自分の想いの“強さ”が心の“強さ”だと、取り違えているように感じました。まさに、それこそが“若さ”なんですが、どうしても、自分の快不快の責任を、自分自身に対してではなく、相手に求めています。

それに対して、“葉山先生”は“泉”の幸せを常に考えて、自分の気持ちを圧し殺したんだと思います。“妻”を守ってあげられなかった自分が、違う誰かを幸せにしてあげることはできない。また、誰かの不幸の上には、自分と“泉”の幸せは築けないと考えたんだと思います。そう感じるのは、自分がオジサンになったからかもしれません。“弱さ”のイメージと真逆の“明るく”“強い”キャラである松潤と架純ちゃんという、“配役の妙”もあるかもしれません(これが、例えば松ケンと希子ちゃんだったら、まったく違う作品になったと思います)。

余談ですが、“ナラタージュ”とは、ナレーションとモンタージュを合わせた言葉だそうです。映画で、画面外の声に合わせて、物語が展開していく技法のことで、確かに、原作も映画も、“泉”の回想として、物語が展開していきます。“泉”にとって、悲しくて辛いだけの“思い出”ではなく、何年かして振り返っても、前向きに受け止めていける“思い出”になっているように感じました。たぶんその理由は、“葉山先生”が“泉”の気持ちに逃げないで、ちゃんと向き合ってくれたからだと思います。映画の“葉山先生”“泉”に原作にない、人としての“優しさ”本当の心の“強さ”を感じました。
 
またもう一度、島本理生さんの原作を読んでみたいと思います。