長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

私は人間だった。それは戦う者だということを意味している

「人は最初から人に生まれたのではない。人になっていくのである」
「暑さ寒さに苦しんだ者でなければ、人間の値打ちなんてわかりはしない」
「世には、なに一つまともに企てないがゆえにあやまつことも全然無い人間がいる」
「行為または忍耐によって改善しえられないような境遇は一つもない」
「何事につけても、希望するのは絶望するのよりよい」
「可能なものの限界をはかることは、誰にもできないのだから」
「私は人間だった。それは戦う人だということを意味している」

これらはすべて、ドイツの文豪ゲーテの言葉です。
この言葉どおり、今から16年前の2002年(平成十四年)八月、北海道の地で、42歳で亡くなるまで、戦い続けた人が居ました。その人とは、『こんな夜更けにバナナかよ』の主人公、鹿野靖明さんです。

先に映画を観てから、渡辺一史さんのノンフィクションを読みました。
映画は、大泉洋さんのコミカルな演技(と言っても、もっぱら顔と台詞だけですが)と、三浦春馬さんの爽やかなウジウジダメダメ、高畑充希さんの勝ち気で天真爛漫さに心が和み、目一杯楽しめました。
しかし、その一方では鹿野靖明さんの本来の姿が、その十分の一さえも描かれていません。
正直、映画を観て物足りないと感じた方は、是非とも、渡辺さんの本を読むべきです。

単行本458ページにも及ぶ大作です。渡辺さんは、その最後を、次の文章で結んでいます。

そして、鹿野と向き合った、二年と四ヶ月の日々ー。
さまざまな人々のあいだを歩き回り、話を訊き、話を持ち帰り、それらと揉み合い、へし合いするうちに、いつのまにか自然と運ばれ、押し出されるようにして私がたどり着いたのは、とてもシンプルな一つのメッセージだったようにも思うのだ。
生きるのをあきらめないこと。
そして、人との関わりをあきらめないこと。
人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそういうことなのだろうと、私は思い始めている。

鹿野さんと関わりを持った人々の何人かは、その後の人生を大きく変られることなります。
自分自身も、渡辺さんの文章を読んだことで、これまで多少は分かっているつもりだったこと、例えば「福祉の有り様」「健常者と障害者の関係」「本人に寄り添った支援」「自己決定の尊重」「自立した生活」「共に生きる」等が、足元から大きくグラついてきます。
さらには、日本人の美徳とされる「人には迷惑を掛けないこと」「黙って相手を思いやること」「人の痛みを察すること」、ともすると「言ってもしょうがない」「自分が我慢すれば上手くいくから」「どうせ無理だからあきらめるしかない」という風潮さえ、疑問に感じてきます。

当時は、障害者に対する「合理的な配慮」や「ノーマライゼーション」という言葉も、広く社会に一般化されていない時代だったと思います。その中で、鹿野さんとボランティアの方たちは、はるか先を目指して、日々、命懸けの戦いを、繰り広げていたことを知りました。

「人工呼吸器をつけなければ、この先の延命は難しい」という宣告を医師から受けたのは、一九九五年(平成七年)四月のことだった。(中略)肺のまわりの筋力が低下し、すでに自発呼吸が難しくなっていた。安静にしても脈拍が高く、酸素のうすい高い山に登っているように息苦しい状態がつづいていた。(中略)呼吸器をつければ話せなくなる。一生病院から出られなくなる。それがなかば常識とされた時代だった。鹿野は動揺を隠せなかった。これまで足、腕、心臓と、次々に筋力が衰えてゆく中、さらに会話まで奪われることは大きな恐怖だった。

病室の呼吸器は、小型冷蔵庫ほどの大きさがあった。その機械から伸びるホースが自分のノドについている。「まるで鎖につながれた犬だ」と鹿野は思った。

そんな中、鹿野は、しきりに「家に帰りたい」と書きつけるようになった。
「えっ、どうやって帰るの?」「どうしても帰りたいの?」と医師も看護師も不思議そうにいった。
鹿野にはその言葉の方が不思議だった。
「だって、あなたたちだって、仕事が終わったら自分の家に帰るじゃないか。だったら、ぼくも帰りたい!」と鹿野は書いた。

痰の吸引を含めた人工呼吸器の管理は医療行であり、医療関係者か例外的に本人家族にしか認められていません。にもかかわらず「ボランティアは自分の家族と同じ」と、拡大解釈をして、自らの身体を使って訓練させ、ついに家に帰ってしまいます。さらには、絶対に禁止されていた誤嚥防止のためのバルーンの空気圧を、勝手に緩めて発声も出来るようになります。そして、医師からは余命1年と言われていたのが、5年も自宅での生活を続けて、時には外出さえします(映画でも、この辺りのところは描かれていましたが、現実は美談ではなく、まさに“常識”や“医療の壁”との戦いです)。ボランティアは、学生が中心なので毎年4月には、まとまった人数の入れ替わりがあります。

《痰とりを教えた人が1000人になるまでボクは生きる!》というのが、退院以来の鹿野のモットーだが、育てても育ててもボランティアはやめてゆく。また育てる。またやめる。この闘いは終わることがない。

自分の中で、最後まで残った問いは「フツウに生きて、フツウに他者との関係を維持する」。
さて、じゃあ「フツウ」とは、何なのでしょうか?正直言って、よくわかりません。
果たして、自分にとっての「フツウ」と、他の人の「フツウ」が、合致することはあるのでしょうか?

以下は、プロローグから、渡辺さんと鹿野さんの会話の抜粋です。

「シカノさん。シカノさんにとって、生きる喜びって何ですか?」
私は少し唐突すぎる質問をする。
「まず一つは、外出できることだ。外出はいい。ストレスもいっぺんに吹き飛ぶしねー。しかし、これには問題がある。介助者が最低でも二人以上いる。リフトバスも手配しなきゃならない。それから、冬になると雪の問題なんかもある」(中略)
「それから」と鹿野はいった。「ー有名になれることだ」
「有名に、ですか」
「そうです。だって有名にならないと、ボランティア集まらないじゃない。ボランティア集まらないと、生きてけないしょ」
「…ホントは、有名になってチヤホヤされたい、とか」
「ないです。それはないです。言ったでしょ。ぼくは日本の福祉を変えたい。それがぼくの欲望。ーも、もてたい、とか、せ、千人斬りとか?(笑)もうそんな体力ないです。とっくに引退したよ」
私が不審そうに薄目で見ると、
「いやホントだって」と鹿野は鼻の穴を大きくふくらませた。

鹿野さんは、渡辺さんの本の完成を待たず、夢だったアメリカに行くことも叶わず、亡くなりました。
前夜祈祷式に約300名、葬儀式に約170名が参列し、火葬場には40人余りのボランティアが付き従ったそうです。自分もボランティアをやらないまでも、鹿野さんに会って、直接、話したいと思いました。