長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

児相・児相・児相

このところ、連日のように“児相”のことが、ニュースで報じられています。
でも、その割には“児相”について、まだまだ一般的に知られていない気がします。
“児相”の役割や必要性を理解するためにも、是枝監督の『万引き家族』を観ることをお勧めします。
未だに、本作品が「犯罪を奨励している」と、誤った認識をしている人が居ることが残念です。
港区南青山の“児相”建設に反対をされている方も、是非、観てください!

以下は、ネタバレになりますので、映画を観てない方はご注意ください。

実は『万引き家族』には“児相”や“福祉事務所”が、基本的には出て来ません。
その理由は行政から見れば、どこかの市会議員先生がおしゃったとおり、彼らは存在しない“家族”だからです。それぞれ親や肉親から見棄てられ、そのままでは、孤独なまま死ぬしかありませんでした。

「かわいそうだよー。このままじゃ寒くて死んじゃうよー」

彼らは“スイミー”のように、一人一人は小さく、か弱い存在ですが、お互いに密着して身を寄せ合うことで、大きな魚に呑み込まれないように、必死に生きていました。彼らは決して“万引き”だけで、生活していた訳ではありません。“父親”も“母親”も、怪我やパート切りで失職するまで、ちゃんと働いていました。

「捨ててない。拾ったんです。捨てた人っていうのはほかにいるんじゃないですか?」

映画の終盤“家族”の存在が、公になると“警察”と“マスコミ”が、こぞって犯罪者として“断罪”します。そして、社会的・法律的に“正しい”処置が行われることになります。その結果“家族”はバラバラに引き離されてしまいます。彼らを棄てた親や肉親が被害者として扱われます。

「お釣りがくるくらい楽しい時間だった」

松岡茉優さんが演じた“少女”は“家族”が暮らした家に、一人で戻ってきます。“少女”は、そこでまた新しい“家族”を求めて暮らすことを予感させます。一方“警察”に保護されて“児相”に入所した“男の子”は、間違いなく面会禁止のはずの“父親”とともに、犯罪者として収監された“母親”に会いに行きます。そして“父親”の一人暮らしのアパートに泊まり、一緒に海釣りをした後で、一人バスに乗った“男の子”を“父親”が走って追いかけます。そこで場面が終わります。なので“男の子”がそのまま“児相”に戻ったかどうかはわかりません。“児相”に戻らず“父親”と二人で、また“幼い妹”を“万引き”に行った可能性もあります。

「子供に万引きさせるの後ろめたくなかったですか?」
「他に教えられることが何にもないんです」

是枝監督が『万引き家族』で、一番に伝えたかったことはなんでしょうか?
あの映画の主人公は、樹木希林さんでも、リリー・フランキーさんでも、安藤サクラさんでもないと思います。明らかに“男の子”と“少女”そして誰よりも“幼い妹”が主人公です。本来ならば、周りの大人たちや社会から保護されるべき“児童”が、裕福なはずの今の日本に居ること。そのための“児相”や“福祉事務所”、さらには“警察”や“マスコミ”が、必ずしもその役割を果たしてないこと。それどころか、放置されているところを他人に拾われて(法律的には万引き?)、一度は救われた児童が、また元の虐待の場所に連れ戻してしまうことがあることを、伝えたかったんだと思います。

「殴るなんて愛じゃない。愛ってギューッと抱きしめることなんだよ」

それでも“救い”があったは、棄てられていた児童も、あの“家族”の元で、寄り添って暮らした日々を経験し、縁側で見えない花火の音を聞いて、新しい水着を着て海水浴に行った楽しい“家族”の思い出も出来ました。特に“幼い妹”は、新しい洋服を買って貰っても叩かれないことを知りました。一緒にお風呂に入って、優しく抱きしめても貰えました。映画の冒頭とラストの両方に、団地の外廊下で独り遊ぶシーンがあります。その対比が、本作品のキモだと思います。ラストのシーンでは“男の子”に貰ったキラキラ光るビー玉を“母親”に教えて貰った数え歌で数えています。冒頭のシーンとは違って“家族”の絆を感じます。その目にも“力強さ”があるように思いました。