長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

罪と罰

図書館のホームページで“保護司”をキーワード検索して、ヒットした小説を2冊続けて読みました。
真保裕一さんの『繋がれた明日』と吉村昭さんの『仮釈放』です。
どちらの作品も、人を殺める“罪”を犯して、少年院・刑務所に収監される“罰”を受けて、その後に仮釈放となり社会に戻って、保護司による保護観察を受けながら更生を目指す話です。

思いがけぬ考えが頭の中をかすめ過ぎ、苦笑した。
遠い地に住まなければならぬなら、むしろ刑務所の房に戻った方が気持ちは安らぐ。
それは、一日も早く出所したいと願い、仮釈放が告げられた折に身をふるえるほどの
歓びを感じたことと矛盾する。なにが自分を不安がらせているのか。
刑務所では、自分の周囲に高い塀、房の鉄格子、壁があって、それらにかこまれている
ことに安心感に近いものを感じていた。そのような環境に慣れていた自分は、
拘束する仕切りというものがない開けきった空間に身をおいていることに、
おびえに似たものを感じているのだ。
土から出て陽光に身をさらす土竜と同じような生理的な恐れなのか。

しばらく社会と隔離されてきた主人公が、車やエスカレーター、道を歩く人たちに怯える姿は、とてもリアルでした。結果的に、どちらの主人公も、再び“罪”を犯してしまい、仮釈放が取り消されます。しかし、一方は“ハッピーエンド”で終わりますが、片方は“絶望的な悲劇”で終わります。人はやってはいけないと分かっていて、なぜ“罪”を犯してしまうのでしょうか?心が弱いから“罪”を犯すのでしょうか?心が強ければ、人は”罪”を犯さないのでしょうか?一度、大きな“罪”を犯してしまった二人は、法律が定めた“罰”を受けた後でも、社会の中で繰り返し様々な“罰”を受け続けます。

人は誰だって最初から強くなんかない。鍛えられて、否応なく強くなっていく。
風に吹かれて震えるような弱い心では世間は渡っていけない。
傷を受けたからといって特効薬に頼ったのでは、体自体が弱くなる。
傷口を風にさらし、痛みに耐えるしかない。

性善説性悪説かの議論はさておき、人は誰しも、心の奥底に、人を傷付けても構わない“衝動”を、自分では抑えることが難しい“闇”を抱えているのかもしれません。それを『仮釈放』の新潮文庫本の巻末解説で、文芸評論家の川西政明さんは“「悲劇」の原型”と表現しています。

なぜ、このようになってしまったのか。
朱色がひろがり、手足が自然に動いたのがいけなかったのだ、と思った。(中略)
為体の知れないなにかが自分を操り、手足が動いてしまったのだ。(中略)
これが自分の定めであり、それはどうにもならないことなのだろう。(中略)
出所などせず、独房と印刷工場の間を往き来する日々を送っていれば、
このように涙を流しながら歩くこともないのだ。
刑務所では、自分一人の世界に身をひそめていることができたが、
所外の社会には余りにも多くの人たちがいてわずらわしく、自分には不向きであったのだ。
 
繋がれた明日』は、大河ドラマで弁慶や島津久光を怪演した青木崇高さん主演で、TVドラマ化されました。『仮釈放』の方は、役所広司さん主演の今村昌平監督の『うなぎ』に反映されたと言われています。ちなみに、保護司の役は杉浦直樹さんと常田富士男さんが演じたようです。
以前に紹介したビッグコミックオリジナル連載中の漫画『前科者』でも、ドストエフスキーの『罪と罰』が登場します。次回“最強の保護観察中女子”みどりさんと“最弱の保護司”佳代ちゃんの活躍が、とても愉しみです。