長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

一度きりのピタゴラスイッチのはずが…

話題のTVドラマ『MIU404』が、先日、最終回を迎えました。

いわゆる「夢オチ」については、賛否両論あるみたいです。

“時間を止めて元に戻す”とか“パラレルワールド”とかは、SFではよくある話です。

ドラッグによる幻覚、二人の深層心理が映し出されたという意見もあるようですが。

どちらにしても、デジタル時計の数字が「0:00」で止まったままでしたので、

途中で、現実の時間は動いてないと、気付くように演出がされていました。

 

あくまでも個人的な感想ですが、

せっかく、第9話までは、どの回もリアリティのある展開で、

それがこのドラマの魅力でしたので、少し残念な気がします。

 

前回のブログで書きましたが“人生は、一度きりのピタゴラスイッチ”です。

失敗した後で、失ったものを取り返すことが出来ないまま、

それでも、そこから諦めずに何度も、何度もやり直すしかありません。

元に戻ってしまうのは、やはり“違う”気がしますし、

『アンナチュラル』や『lemon』の世界観とも異なるのでないでしょうか?

 

第9話までに登場した人たち、彼らにもそれぞれ“分岐点”があったはず。

しかし、その時点では分からず、後戻りが出来ず、犯罪を犯してしまいます。

奇しくも第3話で、志摩が言っていたように

 

その時が来るまで 誰も分からない」

 

だからこそ

 

「毎日が選択の連続。また間違えるかもな…

 まあ、間違えても ここからか

 

それが、人生だと思います。

なので、志摩と伊吹には、ちゃんと間違えた責任を取って欲しかったです。

 

第10話では、あれほど緻密で用意周到、計算高かったはずの久住が、

いくら居所がバレることを想定してなく、不意を突かれたとしても、

二人をすぐに始末せずに、同じ部屋で放置して、

動けないよう柱とかに固定しないで、目隠しや猿ぐつわもしない、

ましてや携帯電話を取り上げて壊さないのは、あり得ないミスです。

二人ともドラッグで意識がない状態のまま、海に放り込めば済む話です。

(ハリウッド映画だと、海中で二人の意識が戻って、何とか脱出しますが…)

 

それよりも、例えばですが、妄想どおりに現実が進んで、

久住は、伊吹に撃たれ植物人間となり、正体は不明のまま。

伊吹は、単独行動と暴走の責任を問われて、停職処分を受けて奥多摩に戻される。

志摩は、奇跡的に弾が急所を外れて、九死に一生を得たが身体に障害が残る。

機捜404は、解散される。

という展開の方が、良かったと思います。

(コロナ禍の影響で、十分にシナリオを練る時間が足りなかったと推察します)

 

 

 

 

 

 

 

 

人生は、一度きりのピタゴラスイッチ

綾野剛さんが演じる“伊吹”と、星野源さんが演じる“志摩”がダブル主演の刑事ドラマ

『MIU404』の第3話、サブタイトル『分岐点』での台詞です。

 

「障害物を避けたりしながら

 何かのスイッチで犯罪を犯してしまう」

 

「人によって 障害物の数は違う

 正しい道に戻れる人もいれば

 取り返しがつかなくなる人もいる」

 

「誰と出逢うか 出逢わないか

 この人の行く先を変えるスイッチは何か

 その時が来るまで 誰も分からない」

 

そして、第8話『君の笑顔』では、驚きの展開がありました。

伊吹の恩人、小日向文世さんが演じる“ガマさん”が、逮捕され連行されるシーンでは、

いつもの『感電』ではなく、『lemon』が流れてもおかしくありませんでした。

 

そして、今更ですが「アンナチュラル」には、

“不自然な死”だけでなく、

“不条理な死”の意味があることに気付きました。

大切な人を“不条理な死”によって突然奪われてしまうこと、

それも“スイッチ”になってしまいます。

そのとき、中堂さんはミコトと出逢って、ギリギリ踏み止まりましたが、

伊吹には、ガマさんを前もって食い止めることが出来ませんでした。

果たして分岐点は、何処にあったのでしょうか?

 

「もうずっと麗子(亡くなった奥さん)の笑った顔を思い出せない」

 

「あの子に・・・伊吹に伝えてくれ。お前にできることは、何もなかった。何もだ

 

と、ガマさん言いますが、そんなことはありません。

必ず、あったと思います。何故なら、ピタゴラスイッチの組み合わせは、

人の想像力の数だけ、無限にありますから。ただ、残念ながら、人生においては

“取り返す”ことが出来ないこと、そして“戻らない幸せ”があります。

伊吹は、これから何度も何度も、繰り返しガマさんを“夢に見る”ことでしょう。

第6話『リフレイン』での志摩のつぶやきにも繋がっています

 

「お前の相棒が、伊吹みたいなヤツだったら、生きて

 刑事じゃなくても生きて、やり直せたのにな」

 

最終回まで、残りは2話でしょうか?どのようなラストを迎えるか愉しみです。

伊吹と志摩は、ハムちゃんと成川くんが“最悪の事態になる手前”で食い止めて、

ハッピーエンドへスイッチすることが、出来るのでしょうか?

『優しい人』になりたい

先日、映画『ジョーカー』を観て感じたこと、その中で書かなかったと言うか、

書けなかったことがあります。

それは「相模原障害者施設殺傷事件」の加害者である“彼”を連想したことです。

さらに、今日、彼の歪んだ思想と、ナチスドイツの『優生思想』を関連付ける

テレビ番組をやっていて、たまたま観ました。

でも、一個人が犯した犯罪と、国家による虐殺を、わざわざ結び付けることに、

自分は、強い“違和感”を感じてしまいました。

悲惨な事件が起きた施設「やまゆり園」は、今でこそ、相模原市緑区の住所ですが、

市町村合併される以前の住所は、津久井郡相模湖町でした。

津久井郡は、神奈川県の北西の端に位置して、山梨県に近い、まさに山奥です。

港区南青山のような市街地の中ではなくて、都心から遠く離れた場所に、

150人もの知的障害者を収容できる大規模施設が作られたこと、

そして、その施設に自分の子や兄弟姉妹を預けるしかなかったという、

これまでの日本の福祉に、あの事件の“根っこ”があると思っています。

 

ここで、話は変わりますが、

先日、米津玄師さんの新しいアルバム『STRAY SHEEP』が発売されました。

その7曲目に『優しい人』という曲が『馬と鹿』と『lemon』の間に収録されています。

以下は、その歌詞です。

 

気の毒に生まれて 汚されるあの子を
あなたは「綺麗だ」と言った
傍らで眺める私の瞳には
とても醜く映った

噎せ返る温室の 無邪気な気晴らしに
付け入られる か弱い子
持て余す幸せ 使い分ける道徳
憐れみをそっと隠した

(中略)

周りには愛されず 笑われる姿を
窓越しに安心していた
ババ抜きであぶれて 取り残されるのが
私じゃなくてよかった

強く叩いて 「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治して

あなたみたいに優しく
生きられたならよかったな

優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに

この歌は、米津さん自身の小学校時代の体験が、元になっているようです。

優しい“あなた”は、先生でしょうか?それとも同級生でしょうか?

 

話を戻しますが、事件を起こした彼は、平成2年に生まれだそうです。

(米津さんは、平成3年の生まれなので、ちょうど同世代です)

彼は、小さい頃から施設のすぐ側で暮らし、施設とも交流があった小学校に通って、

大学では教育学部で学んで、卒業後に数年間、施設で非常勤職員として働きました。

彼は、何を見て、何を学び、何を感じて、あの犯行に及んだのでしょうか?

 

でも、一つだけ確かなことがあります。それは、彼の偏った“正しさ”も、

(米津さんの素晴らしい才能も)間違いなく、平成の日本で育ちました。

 

人生は、悲劇でも喜劇でもない

ホアキン・フェニックスが主演し、

アカデミー賞主演男優賞を受賞した映画『ジョーカー』を観ました。

 

“笑うのは許して 病気です

  脳および神経の損傷で 突然 笑い出します”


主人公のアーサーは、緊張すると笑いが止まらなくなるという精神病を抱えていて、

周りからは不気味と思われ、それでも貧困の中、認知症の母親の面倒を看ながらも、

いつかはコメディアンになる夢を持って、暮らしていました。

 

“心の病を持つ者にとって 最悪なのは…世間の目だ

 こう訴えてくる 心の病などない…普通の人のようにしてろと”

 

ある日、彼は突然、仕事をクビになってしまいます。

さらに定期的に受けていた市のソーシャルワーカーの面談も、

予算カットで打ち切られ、彼は追い詰められていきます。

 

両側を高いビルに挟まれて、長く続く細い階段、

いつまで待っても届かない手紙、毎日確認しても空の郵便受けが、

彼の孤独な心象を表しています。

 

やがて母親が…

そして彼は…

 

“人生は悲劇だと思ってた

  だが今 分かった 僕の人生は喜劇だ”

 

映画の冒頭から最後まで、何度か繰り返される

ホアキン・フェニックスの“踊り”と“笑い”、

そして、鏡に向き合ってピエロのメイクをする姿が、

どれも秀逸です。息を止めて見入ってしまいました

 

と、ここまで書いてみましたが、演技や演出は称賛に値しますが、

アーサーの行為は、どのような理由があっても、正当化されません。

綺麗事かもしれませんが、人生は、悲劇でも喜劇でもなく、

誰もが暴力以外の手段で主張し、お互いの存在を認め合う社会が健全です。

アーサーのように居場所が無い人間を追い詰めた上に、

ヒーローとして祭り上げる“マスコミ”や“大衆”の方が、不健全だと思います。

理想の職場がありました!

そこで働く人たちが、全員、明るく生き生きとした表情で、良い顔をしていたら、

その職場は、夢のような“理想の職場”ではないでしょうか?

 今日の夜、たまたまテレビのチャンネルを回していたら、

まさにそんな職場が、ある番組で紹介されていました。

 

その職場とは、あのスターバックスコーヒーのnonowa 国立店です。

スタッフの大半が聴覚障害者で、コミュニケーションの中心が手話で運営されています。

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スターバックス コーヒー ジャパンの水口貴文CEOは、同社ホームページで、

以下のように述べています。

「店舗のコンセプトは“Infinite Possibilities(無限の可能性)”。

 私たちパートナーの夢を店舗という形にしました。

 聴覚に障がいのあるパートナーやお客様にとって、

 ありのままの自分で居られる場所であり、

 障がいのある若者にとって夢や未来を描ける場所、

 そしてこの店舗を訪れた誰もが新たな気づきを得られる場所に

 なればと考えています。」

 

いつの日か、区役所や銀行、その他の事務所や工場などでも、

“手話しか使えない”部署が、出来たとしたら、

おそらくその職場は、“自分らしく働くことができる”職場になると思います。

ほんとうに夢のような話ですが。

 

以下の文章は、日本で初めて手話と日本語のろうバイリンガル教育の学校・明晴学園の

初代校長で元理事長、ジャーナリストの斉藤道雄さんの言葉です。

「まずは、いわゆる健常者以外の人たちは、不幸なんだという思い込みを捨てるべき。

 たとえばろう者の場合は、人生を本当に楽しんでいる人たちも多いんです。

 彼らにとっては聴こえないことが当たり前で、それを不幸だとは思わず、

 とても幸せそうに生きている。それを外から見て、

 「彼らはつらくて、大変で、不幸なんだ」と判断してしまうのは視野が狭い。

 (中略)

 ろう者のことを知りたいと思うのであれば、まずはろう文化に飛び込んでみてほしい。

 それは 聴者が大勢いる場所にひとりのろう者を招待して触れ合う、

 という意味ではありません。

 ろう者しかいない場所に、たったひとりで飛び込んでみるんです。

 すると、当たり前に通じていた音声言語が通じず、心細さを感じるでしょう。

 それはろう者が社会で感じている気持ちそのもの。

 そのように立場をひっくり返すことで、初めて見えてくるものがあると思います。」

 

是非、一度は訪れてみて、実際に体験をしてみたいと思います。

そして、斎藤道雄さんの文章には、まだ続きがあります。

「私はろう者を障害者だとは思っていません。

 もちろん、社会的にはそう分類されてしまいますが、

 私からすると彼らは「ちょっと変わった人たち」なんです。

 その変わった人たちが築いている社会に興味を抱き、面白がることで、

 いかに彼らが豊かな暮らしを送っているかがわかります。

 そもそも、みんなが同じだったらつまらないと思いませんか? 

 みんながちょっとずつ違うから、この社会は面白いんです。」

 

 斎藤道雄さんの著書には『手話を生きる 少数言語が多数派日本語と出会うところで』

があり、他に『悩む力―べてるの家の人びと』『治りませんようにーべてるの家のいま』

『治したくないーひがし町診療所の日々』(いずれも、みすず書房)などがあります。

 

人と犬 賢いのはどっち?

馳星周さんの『少年と犬』を読みました。第163回の直木賞受賞作です。

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本作は『男と犬』『泥棒と犬』『夫婦と犬』『娼婦と犬』『老人と犬』そして

受賞作の『少年と犬』の六編からなっている短編集です。

 

駐車場の隅に犬がいた。首輪はついているようだがリードはない。

飼い主が買い物をしているのを待っているのだろうか。

賢そうな犬だか、かなりやつれている。

 

どの話も、同じ一匹の犬「多聞」が、東日本大震災直後の仙台から

福島、新潟、富山、滋賀、島根、そして熊本までを、5年間掛けて移動し、

それぞれの場所で、“訳あり”の人たちと出逢っては、別れるまでを綴った話です。

なので、この順番に、読むことを強くお勧めします。

それによって、受賞作が、より一層、読み応えがある話となります。

 

人という愚かな種のために、神様だか仏様だかが遣わしてくれた生き物なのだ。

人の心を理解し、人に寄り添ってくれる。こんな動物は他にいない。

 

「多聞は神様からの贈り物ね」

「おれたちにとっての天使だな」

 

間違いなく、馳星周さんが、書きたかったのは、この言葉です。

馳さんと言えば、裏社会を舞台にしたノワール作家として有名ですが、

実は、知る人ぞ知る、超“愛犬家”です。

これまでにも『ソウルメイト』『陽だまりの天使たち ソウルメイトⅡ』

『雨降る森の犬』といった、犬と人の関わりを描いた作品を、これまでも書いています。

さらに、ご自身の飼い犬を記した『走ろうぜ、マージ』などのノンフィクションや、

「ワルテルと天使たちと小説家」というブログもあって、どれも犬好きの必読書です。

 

なお、余談ですが、馳星周さんは、あの“べてる”がある北海道浦河町の出身です。

直木賞受賞の知らせも、浦河町で聞いたそうです。

 

 

 

 

村上主義者ふたたび

村上春樹さんの本を、続けて二冊、読みました。

 父に関して覚えていること。(中略)僕と父の間には

——おそらく世の中のたいていの親子関係がそうであるように——

楽しいこともあれば、それほど愉快でないこともあった。

 

で始まる、一冊目は『猫を棄てる 父親について語るとき』です。

春樹さん自身が「あとがき」で書いています。

『内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせることが

 なかなかむずかしかったからだ』

確かに、文体こそ春樹さんですが、これまでの作品とは違います。

父親のこと。戦争のこと。それらのことを、静かに語り掛けるように

『でも僕としてはそれをいわゆる「メッセージ」として書きたくなかった。

 歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語として、できるだけそのままの形で

 提示したかっただけだ』

なので、自殺してしまう元彼女も、人間の言葉をしゃべる品川区に住む猿も、

突然現れては「中心がいくつもあって、外周を持たない円」を思い描けという老人も、

名前の一部分を盗まれてしまう女性も、「恥を知りなさい」と激しく非難する女も、

ジャズやクラシック音楽ヤクルトスワローズも、いっさい登場しません。

  

全部で8作品ありました。

ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことだ。

とはいえ、彼女についての知識を、僕はまったくと言っていいくらい

持ち合わせていない。名前だって顔だって思い出せない。

また向こうだっておそらく、僕の名前も顔も覚えていないはずだ。

 

もう一冊は、6年ぶりの短編集となる『一人称単数』です。

最初の作品『石のまくらに』の書き出し、そして8ページ目には、早くも、

その彼女と当たり前のように◯◯◯します。

他の作品でも、“自殺してしまう元彼女”から、“ヤクルトスワローズまで

期待を裏切りません。小説(フィクション)でありながら(非現実的な出来事さえ)

まるで実話(エッセイ)のように、情景がリアルで自然です。 

 

そう言えば、誰かが「村上春樹さんは、読書を体験にできる作家だ」と書いていました。

実際に、ふと気がつくと、主人公の行動や言葉を、自分にお置き換えてしまいます。

それでも、なぜか読み終わった後は、不思議と心が落ち着きます。

 

短編集の一番最後に収められているのが、表題になっている『一人称単数』です。

この話だけが書き下ろしです。もしかしたら、この話は、将来、書き足されて

長い中編小説のエピローグになっているかもしれません。そう思いました。

あらためて、自分は、本当に春樹さんの文章が好きなんだと思います。