村上主義者ふたたび
村上春樹さんの本を、続けて二冊、読みました。
父に関して覚えていること。(中略)僕と父の間には
——おそらく世の中のたいていの親子関係がそうであるように——
楽しいこともあれば、それほど愉快でないこともあった。
で始まる、一冊目は『猫を棄てる 父親について語るとき』です。
春樹さん自身が「あとがき」で書いています。
『内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせることが
なかなかむずかしかったからだ』
確かに、文体こそ春樹さんですが、これまでの作品とは違います。
父親のこと。戦争のこと。それらのことを、静かに語り掛けるように
『でも僕としてはそれをいわゆる「メッセージ」として書きたくなかった。
歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語として、できるだけそのままの形で
提示したかっただけだ』
なので、自殺してしまう元彼女も、人間の言葉をしゃべる品川区に住む猿も、
突然現れては「中心がいくつもあって、外周を持たない円」を思い描けという老人も、
名前の一部分を盗まれてしまう女性も、「恥を知りなさい」と激しく非難する女も、
ジャズやクラシック音楽、ヤクルトスワローズも、いっさい登場しません。
ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことだ。
とはいえ、彼女についての知識を、僕はまったくと言っていいくらい
持ち合わせていない。名前だって顔だって思い出せない。
また向こうだっておそらく、僕の名前も顔も覚えていないはずだ。
もう一冊は、6年ぶりの短編集となる『一人称単数』です。
最初の作品『石のまくらに』の書き出し、そして8ページ目には、早くも、
その彼女と当たり前のように◯◯◯します。
他の作品でも、“自殺してしまう元彼女”から、“ヤクルトスワローズ“まで
期待を裏切りません。小説(フィクション)でありながら(非現実的な出来事さえ)
まるで実話(エッセイ)のように、情景がリアルで自然です。
そう言えば、誰かが「村上春樹さんは、読書を体験にできる作家だ」と書いていました。
実際に、ふと気がつくと、主人公の行動や言葉を、自分にお置き換えてしまいます。
それでも、なぜか読み終わった後は、不思議と心が落ち着きます。
短編集の一番最後に収められているのが、表題になっている『一人称単数』です。
この話だけが書き下ろしです。もしかしたら、この話は、将来、書き足されて
長い中編小説のエピローグになっているかもしれません。そう思いました。
あらためて、自分は、本当に春樹さんの文章が好きなんだと思います。