長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

見えない人たち、見ようとしない人たち

昨年中にWOWOWで放送され、録画だけして、そのまま観ていなかった映画を、今回、ようやく観ました。その映画は、3年前の2016年カンヌ国際映画祭において、グランプリである“パルムドール”を受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』です。すでに評判は、聴いていましたが、期待に違わず間違いなく「福祉関係者」「行政に関わる者」が、必ず観るべき映画だと思いました。
本作を撮影したケン・ローチ監督は、パルムドールの受賞スピーチで、次のように語ったそうです。
「映画にはたくさんの伝統がある。その一つは、強大な権力を持ったものに立ち向かう人々に代わって声をあげることだ。そしてこれこそが、私の映画で守り続けたいものだ」
ケン・ローチ監督は、受賞時は御年80才、監督歴は50年になるそうです。一度は引退したものの、それを撤回してまでも撮影した作品です。その理由を、本作の公式サイトで以下のとおり述べています。
“生きるために、もがき苦しむ人々の普遍的な話を作りたいと思いました。死に物狂いで、助けを求めている人々に、国家がどれほどの関心を持って援助をしているか、いかに官僚的な手続きを利用しているか。そこには、明らかな残忍性が見て取れます。これに対する怒りが、本作を作るモチベーションとなりました。”
そしてパルムドールと言えば、昨年の受賞作『万引き家族』に対して、批判意見をツィートした群馬県の市会議員が居ました。ネットニュースによれば、「映画を観ていないのでは?」といった指摘に対しても、「映画ビジネスに名を残す目的で作品を手がけるような監督の映画など、観たくもありません」とリプライを送ったそうです。おそらく、その市会議員は『わたしは、ダニエル・ブレイク』も観ていないし、同様に「観たくもありません」とおしゃることでしょう。
昨年のカンヌ国際映画祭の審査員長であり、女優のケイト・ブランシェットさんが、映画祭の閉会式で、「invisible people(見えない人々)というのが、今回大きなテーマだ」とスピーチしました。余談ですが、皮肉にも前述の市会議員は、ケイト・ブランシェトさんの出身地オーストラリアのメルボルンに留学して政治を学び、趣味は“映画鑑賞”と、ご自身のプロフィールに書いています。
一方、是枝裕和監督は、パルムドール受賞後のインタビューで、以下のようにコメントしました。
「今の日本の社会の中で、隅に追いやられている、本当であれば、見過ごしてしまうかもしれない“家族の姿”をどう“可視化”するか、ということは考えます。それは『誰も知らない』の時もそうでしたし、今回もそうでした」
万引き家族』を観てない方には、まったく分からないと思いますが、題名の『万引き家族』には、“万引き”で生計を維持している“家族”という意味ではなく、“家族”を“万引き”する意味が込められていると思います。そうしないと“生きていくことが出来ない人々”が、今の日本に存在します。それは、絵本『スイミー』が重要なモチーフであることからも分かります。“スイミー”たちは、大きな魚から身を守るために、ある“行動”をします。是枝裕和監督は、日本外国特派員協会での記者会見で『万引き家族』を作った背景、思いなどについて、次のように語りました。
「テレビ(ドキュメンタリー)をやっていた20代の頃に、先輩に(不特定多数ではなく)『誰か一人に向かって作れ』と言われた。母親でもいいし、田舎のおばあちゃんでも、友達でもいい。誰か一人の顔を思い浮かべろと。以来、ずっとそうしています。本作では、親から虐待を受けた子どもが生活する施設を取材した。
思い浮かべたのは、その際に出会った小学生の女の子。ちょうど学校から帰ってきたその子に「今、何を勉強しているの」と話しかけると、ランドセルから国語の教科書を出して、レオ・レオニの『スイミー』の朗読を始めた。施設の職員の方が『みんな忙しいんだからやめなさい』と言っても、彼女は最初から最後まで読み通した。そして僕たちみんなで拍手をしたら、すごくうれしそうに笑った。そのときにああ、この子はきっと、離れて暮らしている親に聞かせたいんじゃないか、と思いました。その子の顔が忘れられなかった」
そして、『わたしは、ダニエル・ブレイク』の最後のシーンでは、ダニエル・ブレイクの申し立て文が読み上げられます。本人が、鉛筆で手書きされたものです。
「私は依頼人でも、顧客でも、ユーザーでもない。怠け者でも、たかり屋でも、物乞いでも、泥棒でもない。国民保険番号でもなく、エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思っている。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を貸す。施しは要らない。私はダニエル・ブレイク。人間だ。犬ではない。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度というものを。私はダニエル・ブレイク、一人の市民だ。それ以上でも以下でもない」
ケン・ローチ監督にも、間違いなく、思い浮かぶ実在の人々が存在したはずです。そして、どちらの作品も「映画ビジネスに名を残す目的で作品を手がけるような監督の映画」ではないと思います。政治家や役人が“自分が見えていること”しか認めない。“目に見えないこと”、社会の片隅で隠れている“見えない人々”が、確かに居ることを認めないとしたら、「政治」も「行政」も、その「目的」や「意義」が無くなるのではないでしょうか?