長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

罪と罰(その3)私と私たち、本物の勇気

ビッグコミックオリジナルに連載中の漫画『前科者』より、

いつも悪いことが起きる、それは自分が悪いからと考えてしまう多美子。
それに対して、佳代ちゃんは、こう考えてはどうかと諭します。 

多美子さんはしばらく…
私たちって考えるといいかもしれません。

私って考えると疲れるし、行き詰まっちゃうんで…

私たちが先にあって、そのあとに私があるっていうか…
そう考えると、ある意味、楽だと思うんですよ。
それでいて、大事な事を見逃さないっていうか… 

この言葉の意味を、ずうっと考えてみました。なかなか簡単なようで難しい言葉です。
例えば“罪と罰”で、考えてみたらどうでしょうか?
 
「私には罪がある」「私が罰を受ける」ではなく、
「私たちには罪がある」「私たちが罰を受ける」と考える。
 
うーん、なんか余りにも宗教的ですね。
でも、佳代ちゃんは、正確には「私たちがいて、次に私が来る」と言っています。
「私たちがいて、その中にいる私に罪がある」
「私たちがいて、その中の私が罰を受ける」
哲学的に考えてみれば、ドストエフスキーの名作を持ち出すまでもなく、
この世に「私」しかいなければ“罪”も“罰”も、
その存在自体が、意識されることはないと言えます。
「私たち」を「私」が意識して初めて「私」は“罪”と“罰”を認識するのだと思います。
 
そんな佳代ちゃんに対して、みどりさんが言います。
 
出ました!佳代ちゃんのきれいごと。

きれいごと言うのは、勇気がいるからさ。
本物の勇気。本物ってすげえじゃん。
基本、人間は偽物だから…
 
つなげて考えてみると
「私たちがいて」その中に「私」が居ると考えれば楽になる。
でも、その中で“きれいごと”を言うには、
“本物の勇気”がいるということでしょうか。
佳代ちゃんが続けて言います。
 
だったら私も偽物です。私も…人間だから。

また、みどりさんが言います。

はい!相田みつを越えました!
偽物でいいじゃないか、だって人間だもの。

「私」だけだと、あくまで“本物”か“偽物”の二者択一しかありません。
それが「私たち」がいれば、「私」が“偽物”であっても、大丈夫ってことですかね。
 
幼いころ、本来なら、無条件で自分を受け入れてくれて、
優しく抱き締めて貰える存在から、虐待を受けきた子どもは、
 
大人になっても、周りから責められる「私」しか認識できません。
万引き家族』の樹里も
「お洋服を買ってあげるから」=叩かれることでした。
 
それが自分を受け入れて、自分が所属する「私たち」を意識すると認識が変わります。『万引き家族』の“偽物”家族であっても、樹里には初めての「私たち」体験でした。
 
多美子さんも、いくつもの「私たち」を体験して、
それを意識することで、
本来の「私」が犯かした“罪”と負うべき“罰”を、自覚して、更に生きることが出来るのではないでしょうか?
そう言えば、よしさんも、佳代ちゃんとみどりさんと「私たち」になることで、ようやく「私」の“罪”を悔いて謝ることが出来ました。
 
心理学的には「私たち」=“環境”、「私」=“パーソナリティ”と、
捉えても良いのかもしれません。
「私」が悪いの前に「私たち」を考えてみること。
環境調整も保護司の大事な職務の一つです。
「私」だけだと「私」を「私」をいつまでも無限に責め続けてしまいますが、その前の「私たち」がいたら「私」は「私」だけを責め続けてしまうことはないと思います。
 
昔に観た映画『グッド・ウィル・ハンティング』で、ロビン・ウィリアムズ演じるセラピストが、子どものころに虐待を受けていたマット・ディモンを抱き抱えて、繰り返し、繰り返し、「お前は悪くない」と言うシーンを思い出しました。
 
多美子さんに、佳代ちゃんの言葉はどこまで届いたのでしょうか?
今後の展開が気になります。
残念ですが、9月は連載お休み。10月からの再開が待ち遠しいです!