生まれ、育ったところ
今日のお出掛けは、下記のとおりです。
スタートは、横浜市営地下鉄グリーンライン「日吉本町駅」。自分が50ん年前に生まれた街です。今では、子どもじみた話ですが、「日吉町」よりも「日吉“本”町」の方がエライと、真剣に信じてました。なので、グリーンラインが開通して「日吉本町駅」が出来たとき、ちょっとワクワクしました。(高田町、東山田、北山田で生まれた人も、同じですか?そう言えば、いつも乗ってたバスは「南日吉団地」か「道中坂下」行きでしたが、どっちも駅名にならなかったですね)
「日吉本町駅」から徒歩5分くらいでしょうか、いきなりですが、ここで生まれました!
今は新しくマンションが建っていますが、当時は父親が勤める会社の独身寮がこの場所にありました。父はそこの寮長をしており、寮長室で生まれました。今では、珍しくなりましたが、あのころは病院ではなく、お産婆さんを呼んで家で出産するのが割と普通だったみたいです。
ちょうど、この場所に寮の玄関があって、その奥の和室で生まれたそうです。父母、兄二人を始めとした一族郎党が全員「関西人」の中で、一人だけ関東で生まれました。生まれすぐに、立ち上がり、7歩歩いて、左右の手の指を上下に指して、「天上天下唯我独尊」と言ったりは、勿論、しません。健康で、少し大きめの男の子でした。上が二人とも男だったので、父親は3番目は女の子が欲しかったようです。
寮のすぐ隣には、「金蔵寺」という、大きななお寺があり、よく境内で遊びました。
そこから徒歩で10分ほど歩くと、次に住んだマンションがあります。保育園から小学校入学までの間、過ごしました。周りの建物がほとんど建て替割っているなかで、今もありました。中に入ってみて、びっくり!エレベーターがありません。6階建ての5階に住んでいましたが、毎日、階段を昇り降りしていたのですね。すっかり忘れていました。6階に(たしか)歳の違う兄妹が居て(名前が不確かです)、よく遊んだ記憶があります。
徒歩数分。次に住んだマンション。カタカナの名前で、当時は意味を知りませんでしたが、今、調べてみたらポルトガル語で、「緑の家」でした。小学校の低学年から中学一年の夏まで居ました。最上階の角部屋でした。眺めが良くて陽当りの良い部屋でした。手前は、昔はガソリンスタンドでしたが、今はコンビニになっていました。(ここはエレベーターがありました)
今でも、屋上に上がることが出来ました。よく友達と遊んだ記憶がが蘇りました。こんなシャレた開放部が階段の途中にありましたが、これは完全に忘れていました。
その後、少し近所を探索してみました。初めてのお遣いに行った「ショピングセンター」(と言う名前で、お肉屋さんや八百屋さん、魚屋さんとかがまとまっていました)。でも、少し離れた場所にあって、いつも行っていた本屋さんは、まだありました!御年配のご夫婦が、重い本を運んで、開店準備をしていました。すごく懐かしくて、中に入って、思わず本を買ってしまいました。「子どものころ、この近くに住んでいました。よく本を買いに来ました。いつまでも、お元気でお店を続けてください」と、声を掛けてしまいました。
次に向かったのが、「団地」です。いわゆる公団が作った団地で、小学校の7〜8割の子がが住んでいましたので、放課後の遊び場が「団地」でした。当時は「南日吉団地」と呼ばれて、エレベーターなしの棟ばかり50棟はあったと思います。それが今では、名前も変わり、高層棟に建替えられ、昔とはまったく違う景色になっていました。
この道が、通学路でした。昔は、大塚製革(「おおつか せいか」と読みます)の工場があって、道路の片側が端から端まで、ずうっとコンクリートの塀が続いていました。それが、今では高層マンションの公開空地になっていました(完全に公園のようです)。そして、我が母校です。
今は、バス停もありました。(昔、この道は「新川」というドブ川でした)
♪明るい大空 輝く富士に 手を振り通い 元気に学ぶ♫
♬イチョウのしるし 希望を胸に 力を合わせて スクスク伸びる♫
♪ぼくの私の 私のぼくの みんなの日吉 みんなの日吉 日吉南小学校♫
40年経っても、覚えているものですね!