長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

開く鍵と閉じる鍵

道尾秀介さんの『スケルトン・キー』を読みました。
ケルトンキーとは、元々は古くからある鍵の種類のことで、「合い鍵」の意味もあるらしいです。

スマートフォンをポケットに戻すと、キーが指に触れた。バイクのキーでもアパートのキーでもない。それらといっしょにリングに通してある、小指ほどの長さの、古い銅製のキー。円柱の軸の先に、単純な形状の凸凹の歯がついている。何を開けるためのものなのかは知らない。オモチャみたいに安っぽいから、べつに何かを開けるためのものではないのかもしれない。

話の内容は“サイコパス”です。だから?たくさん人が殺されます。
しかも最初一人だった“サイコパス”が、二人⁉になって、さらにもう一人、また一人と出てきます。あっけなく、実に簡単に⁉次々と人が殺されていきます。このまま「そして、誰も居なくなった」となるのかと思いました。でも、二人だけが生き残りました(もしかすると見つかっていないもう一人も…)。

Wikipediaによると
サイコパス主な特徴としては、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義だそうです

そういう人たちは、危険な見た目や雰囲気を持っているわけじゃない。でも、他人に共感する度合いとか、恐怖を感じる度合いが生まれつき低いの。心の中に、共感とか恐怖の感情が欠けちゃっているの。自分以外の人を物として見て、役に立ちそうなら利用したり、邪魔だったらどかしたり、消したりもできる。

これまでにも、サイコパスを扱った作品としては、ハマス・ハリスの「ハンニバル・シリーズ」(小説はもちろん映画も全部観ました)、秦建日子さんの「雪平夏美シリーズ」、貴志祐介さんの『黒い家』『悪の教典』、宮部みゆきさんの『模倣犯』『名もなき毒』があります。話の内容は、どれも怖いのですが、どこか安心?して読めます。それは、自分と同じ側にクラリスが居て、レクター博士は鉄格子や厚いガラスの向こうに居るからこそなんだと思います。

それで、本作ですが、正直、読み終えた直後は???、なんだこれ?って感じです。
いったい何を読まされたのかな、と感じました。登場人物に感情移入ができませんでした。
なにせ、サイコパスですから。まるで消化不良です。

「砂山のパラドックスって知ってる?」「知りません」「砂山って、砂の山ね。当たり前だけど。いま、目の前に巨大な砂山があるとするでしょ、それで、その砂山から一粒の砂をつまんで取る。そうすると目の前にあるのは何?」「砂山ですよね」「そう、砂山」「じゃあ、そこからもう一粒、砂を取ると?」「…砂山です」「でしょ。そんなふうにして、一つずつ砂粒を取り去っていったところで、いつまで経っても砂山は砂山。つまり、何粒の砂を取っても砂山は砂山であるということになる。さあ、するとどうなるか」「『砂は一粒でも砂山である』というパラドックスが生じる」「…みんな、どっかおかしいんだよ」

ところが、読み終えてから時間が経つにつれて、意識が変わっていきます。
レクター博士が、自分と同じ職場にも居るかもしれない。もし自分の家族がそうだったら?と考えてしまいます。誰でもレクター博士になるかもしれないと、考え始めます。
すると、それまでは意味が不明だった、巻頭の二つの引用文が、急に意味を持つことに気付きます。

la clef ferme plus qu'elle n'ouvre. La poignée ouvre plus qu'elle ne ferme.
(分類するならば、鍵は、開くよりも閉じるものだ。把手は、閉じるよりも開くものだ。
                   ーガストン・バシュラール『空間の詩学

You can straighten a worm,but the crook is in him and only waiting.
(芋虫を真っ直ぐに伸ばすことができるが、その湾曲は身体の中で、ただ待っている。) 
                         ーマーク・トウェインの言葉  

そして、ラストの数行。恐らく、道尾秀介さんが一番伝えたかったことだと思いました。

生まれてきてしまった僕は、いま何を祈ればいいのだろう。起きてしまった出来事に、祈りなんて通じない。それでも僕は祈りたかった。母と同じように、心の底から祈りたかった。『あなたたちも、大丈夫です』母の言葉が本当でありますように。『大丈夫です』少しでも本当でありますように。

人が人にできることは、祈ることだけ、なのかもしれません。