長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

他人を受け入れること、自分の衝動と向き合う

たまたま新聞の書評を読んで、気になった作家さんの本を図書館で借りて読みました。
ひさびさに、途中で読むのを止められず、明け方まで、一気に読み切ってしまいました。
呉勝浩さんの『白い衝動』です。本当に衝撃的な話でした。

Aはその特異な衝動ゆえに、他者を深く受け入れることを避けている。それは合理に基づく自己防衛だ。しかしAの衝動が本来的に他者を求めている以上、これを独りで解決しようとするのは論理矛盾にほかならない。つまり暴発は、必然なのだ。(数行先、最後の一文)考察は尽きた。私にはもう、祈ることしかできない。

とある街のとある私立学校で、スクールカウンセラーをやっている奥貫千早の元に、ある悩みを抱えた在校生が訪れます。

「奥貫先生でしょうか?」ええ、と応えながら千早は訪問者を見つめた。ブレザーを着た少年に、見覚えはない。ぱっと見の第一印象は日陰にたたずむ小動物だ。「今から、少しお話を伺いたいんですが」

そして、その街には、未曾有の残虐事件を起こし、刑期を終えて出所した元犯罪者が住んでいました。
そこに、被害者の家族が現れて、幾つかの事件が起こり、街の人たちは彼を排除しようとします。
千早の先輩カウンセラーが言います

「本質は変わらないと思う。どうしても人は、自分の物差しでしか他人を測れないものよ。精神疾患者へは特にそう。自分が我慢できることを我慢できないのはただの我がままに見えるし、彼らの生きづらさは本人の努力が足りないからだと思ってしまう。病気なんだと頭ではわかっていても、実は突き放している。身体と違って、心は気の持ちよう。そんな刷り込みがあるのね、きっと」

そして、千早の大学恩師である寺兼准教授が言います

「君は、彼を救おうとでも思っていたのか」「うぬぼれてはいけない。彼のようなアウトサイダーはある確率で発生してしまうものだ。社会が完璧にデザインされたとしても、ゼロにはならない」「我々にできるのは三つだけだ。排除、隔離、そして包摂。しかしこの包摂というのはよくよく誤解されている。まるで社会がアウトサイダーを温かく迎え入れて、受け入れることで、彼らの個性が社会に適合するという幻想を、人々は抱きがちなのだ。実際のところ、包摂とは、すなわち洗脳なんだよ」「臨床心理士の仕事は、社会とアウトサイダーがどちらも最小限の忍耐で暮らしていけるよう、上手に洗脳してあげるのことだ」「気に病むことはない。話を聞く限りこのケースの場合、おそらくはたいてい、無理だ」

身体であれ、精神であれ、障害者とかかわる中で、自分なりに彼らに寄り添っているつもりですが、自分って、実は偽善者なのかも。いろいろと偉そうなことを言っても、結局、自分の手に余る他人は「無理」「仕方がない」と諦めて、何処か現実には逃げただけなんじゃないか?などなど、いろいろ考えさせられました。さらに、寺兼准教授が別の場面で言います

「君は、何を恐れているのか」(中略)「君の恐れの根幹にあるのは、人間の可能性への恐れだ」(中略)「あちら側の住民が、こちら側に戻って来られるように、こちら側にいるつもりの者が、あちら側に渡っていく。君にも私にも、可能性は等しく存在する」

さらに、別の場面で、寺兼准教授は千早に言います

「君に何ができる?覚悟もなく他人を救いたいと口にする傲慢さを知りなさい。誰かを救うなどと語って許されるのは宗教だけだ」(中略)「彼に殺される覚悟があるか?」(中略)「君は、君のように生きればいい。あるがままの君を、私は受け入れる」

本質的な問い掛けだと、思いました。果たして、“絶対悪”は、この世に存在するのでしょうか?
言い換えれば、“他人の苦しみだけが、己の幸福である者”。それは“特異な個性”なのでしょうか?
それとも、そのような“絶対悪”の衝動は、誰の心の奥底にもあるのでしょうか?
もしあるとするとすれば、その対極として“絶対善”なるもの、“己の身を犠牲にしてでも、他人の幸福を実現したい衝動”が、この世に間違いなく存在することになります。それは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、カンパネラが求めた“ほんとうの幸せ”のなのかもしれません。

「生きたいという衝動、死にたいという衝動、殺したいという衝動。たくさんの矛盾し合った衝動があって、きっと私たちは、その全部を持っている」殺したくないという衝動も。生きていてほしいと願う、衝動も。(中略)「きっと、ほんのわずかな差なんだと思う。傷つけたい衝動、気遣う衝動。色が違うだけなのよ。暗い色は気にならないし、明るい色はよく目立つ。塗りつぶすことはできても、なくなりはしない。矛盾した衝動たちと、付き合い続けていく」

あくまでも感覚としてですが、自分は、本来は“人を善なる存在”であり、自ら心地良い環境を選び“良く変わっていく存在”だと信じています。しかしその一方で、現実的対処に甘んじている自分が居ます。

相容れない他人同士が、この街に暮らしている。たった数メートル先で寝起きをしている。喧嘩もすれば愛し合うこともする。その全員を「特別な他人」と思うことはできないにせよ、そうやって生きていくしかないのだから、疑うのはやめられないように、信じるのをやめることもできない。
(中略)
女の子が、不思議そうにこちらを見上げた。「変な人」とでも思っているのだろうか。かまわない。私を受け入れないあなたを、私は受け入れる。たった一人でも、あなたを受け入れる人間がいることを、知ってもらうために。

ラスト1行、“かさぶただらけの手のひら”が、とても痛々しいです。
考えがまとまりませんが、ともかく今は、自分もそうして生きて行こうと思います。
帚木 蓬生さんの『襲来』の次に出逢った本が、この本だったことに、不思議を感じています。
しばらくは、呉勝浩さんの他の作品を読んでみようと思います。