長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

神様除去。真剣に生きた証です。

2017年10月29日にWOWOWで放送されたのを、録画したまま、無意識で観るを避けていました。
何となく、今なら観ても良いような気がして、1年半を経て、ようやく観ることが出来ました。
その映画は『聖の青春』。実在した天才棋士“村山 聖(むらやま さとし)”さんを描いた作品です

やっぱりね なんでも1番を目指さなきゃ ダメなんです
思ってるだけなら バカでもできます
本当に1番になるためには何をすべきか 知らなくちゃダメです

僕はあなたたちとは 違うから
わりゃアホじゃのう ほんっま アホじゃのう
将棋は、殺し合いじゃろうが
将棋指しの人生は それが すべてじゃろうが

村山聖棋士は、広島県出身なので、感情が昂ぶると、思わず広島弁が出てしまうようです。
1969年(昭和44年)生まれ。5歳で腎臓を患い、将棋と出会って、14歳で森信雄棋士の元に弟子入り、17歳でプロの棋士となり、25歳で八段にまで登りつめます。

大丈夫ですよ 人間 誰でも いつかは死にますから
そんなことよりも 今 僕たちが考えなきゃいけないのは
目の前の一手です

ええのう 気軽に将棋を指してりゃ お金をもらえるんじゃけぇ
僕は苦しみながら 将棋 指しとる
そんな気持ち 元気な人らには 分からんじゃろう

緊張した将棋の対局場面の合間合間に、カットインされる“大阪の日常風景”“動物たち”など、穏やかな映像、そして時折流れるインストメンタルの音楽、スローモーションのシーンが絶妙です。
村山聖棋士役の松山ケンイチさんと、あの羽生善治名人役の東出昌大さんの演技が、とても強く印象に残ります。どちらも、鬼気迫る“役者魂”を感じさせる名演技です。松山ケンイチさんは、役づくりのため20キロ肥って挑んだそうです。一方で、誰もが知っている有名人を演じた東出昌大さんも圧巻です。2人の対比、演技の奥に潜んだ、心の“静”と“動”というよりも“激”が、この映画の見どころの一つです。

(一万円札を破り捨てながら)
こんなもん 何の意味もない 全然 欲しくないわ…
生きとる人間には 必要かもしれんけど
死んでいくもんには 何の意味もないんじゃ こんなもん

お前のどこが命懸けとんじゃ!
第二の人生? そんなもん 負け犬の遠吠えじゃ!
スカスカの人生じゃ!
僕には時間がない 勝ちたい 勝ちたいんじゃ
勝って 名人になるんじゃ

村山聖棋士は、ようやく念願の名人位が目前となった27歳のときにガンが見つかり、1998年(平成10年)に29歳の若さで亡くなります。

僕にはね 2つ夢があるんです
1つは 名人になって 将棋をやめて のんびり暮らすこと
もう1つは…すてきな恋愛をして 結婚することです
でもダメです こんな体じゃ 僕は長生きできないから
でも こんな体じゃなかったら 将棋に出会ってなかったかもしれないし
羽生さんとも 将棋が指せなかった
神様のすることは 僕には予測のできないことだらけですよ

容赦なく襲いかかる過酷な運命。それにも負けずに、自分の人生と向き合って、神様とさえも闘い続けた、短くても、濃密な人生だったと思います。そう感じさせる作品でした。

映画のエンドロールが流れた後に「この作品は『聖の青春』(大崎善生著)を元にしたフィクションであり、事実とは異なる描写があります」との文があります。自分も放送前に、大崎善生さんの原作を読み終わっていました。確かに内容は、少し違っています。原作の方は、完全にノンフィクションで、生い立ちや師匠との関係が中心に書かれています。入退院を繰り返した養護学校時代、単身でプロ棋士を目指す過程が丁寧に描かれています。

それに対して、森義隆監督の映画の方は、将棋の世界を良く知らない自分であっても、夢を叶えたかは関係なく、どれだけ真剣にそれに向かって挑み続きたか、それが人の“生きた証”なんだとストレートに伝わります。

ネットで“村山聖”さんを検索していて、生前に本人が書き残した文章を見つけました。
以前に1チャンネルの番組『クローズアップ現代』で、紹介されたそうです。

“人間は悲しみ、苦しむために生まれた。
 それが人間の宿命であり、幸せだ。
 僕は死んでも、もう一度人間に生まれたい”