長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

ネットで買うのは作業。本屋で買うのは体験。

碧野圭さんの『書店ガール7  旅立ち』を読みました。
このシリーズは1から6まで、全部、読んでいます。残念ながら、これでシリーズ完結だそうです。

昔から本が大好きだった自分としては、図書館の司書とともに、本屋さんは“憧れの職業”です(中学校では、図書係をやりました)。大学を選ぶときも、図書館情報大学を受験しようかとさえ、考えました(国公立大学が複数受験できたなら、間違いなく受けたと思います。今は廃校になったみたいです)。

「どこで働くにしても、人は何かしらその意味を求めたがる。
 書店業界が小売業で最低賃金と揶揄されても、……それでも本屋で働きたいというのは、
 お金だけではない何かを人は求めるからなのでしょう」

インターネットが無かった時代、当然ながらアマゾンも、電子書籍もありませんでした。ブックオフも、図書館のネット予約もありません。家の近くや、途中のターミナル駅の大型書店で、何時間も店内をウロウロしました。ちょうど、ネット検索の感じで、最新の情報や流行りを確かめつつ、自分が読みたいと思う本を探すことが、本当に愉しい“時間”であり、未知の知識を求めた“探検”でした。

「だけど、いまの時代、本を買うことにも物語が必要だとは思いませんか」
「その場所で買う意味、とでもいうのか。ただ本を買うならネットでもいい。
 品質も値段も変わらないし、在庫の数と利便性ではネットにはとても太刀打ちできない」
「知的な刺激を与えるイベントを行うとか、なんでもいいんです。
 そういう付加価値を与えてくれる店、お客さんにとってそういう店はで買うことは、
 単なる消費行動ではなく、体験になる」

本好きにとって、子ども頃からの行きつけの本屋さんが、どんどん無くなっていくのは、本当に寂しいことです。自分にも、思い出の本屋さんが、幾つもありました。日吉駅前の「山村書店」、大倉山駅前の「ブックスJOY」、渋谷駅東口の東急文化会館にあった「三省堂書店」、そして西口の東急プラザにあった「紀伊國屋書店」、いずれも今はありません。

さらに横浜には、老舗の本屋「有隣堂」があります。自分で好きな色が選べるオリジナルの10色文庫本カバーが特色です。そして、伊勢佐木町にある有隣堂本店は、開店が明治42年(西暦1909年)、100年を越えてます。高校の通学路だったため、自分がよく立ち寄った西口のダイヤモンド地下街店は、昔あった場所から移動して、お店の雰囲気もだいぶ変わりました。もしも、伊勢佐木町の本店が無くなるとなったら、間違いなく、横浜では反対運動が起こると思います。

「本屋に必要なのは、合理化だけでしょうか?本屋が文化を守るなんて青臭いことは言いません。
 だけど、ひとりひとりのお客の顔を見て、その客の求めるものを予想し、棚に並べる作業は、
 合理化できることなのでしょうか。本ほど衝動買いが多いものはない。その衝動はどこから
 生まれるのでしょう?本に添えられたPOPのコメントとか、書店員のちょっとしたアドバイスとか、
 合理化では計れないものが後押しするのではないでしょうか?」

これからAIが、人々の働き方を大きく換えていく時代を迎えます。
そこで“本屋”や“書店員”を、“病院”や“役所の窓口”、その他の仕事、勤務先に置き換えてみてください。人から必要とされている場所で、働いているでしょうか?

「僕は……会社のためでなく、そろそろ自分のための仕事がしたい、と思っているんです」
「震災の時、決めたんです。これからの人生は自分以外の人のために生きよう、と。
 いま自分を必要としているのは、東松島の人たちです。
 ……いや、ほんとうはそうでないかもしれない。
 だけど、僕が生きる意味を見出だせるのは、東松島なんです。そこでなら、過去も未来もある。
 僕がこの世界で生きる意味のある、たったひとつの場所なんです」

2020東京オリンピックまで、あと1年半あまりとなりました。自分が最期に働く場所は、自分自身で決めたいと思っています。だから、それまでに、自分の“東松島”を、どこかに決めようと思っています。