長介の髭 消えないままの痛み

犬と本と漫画、映画にドラマ、ときどきお出掛け。消えない傷を残して、前に歩む毎日。

夢のように美しいが現実のようにたしかな…

いつものようにWOWOWで放送された映画を観た後で、原作の小説を読みました。
映画も十分に綺麗な映像で満足感は得られましたが、やはり、小説の方が勝っていると思いました。
宮下奈都さんの『羊と鋼の森』です。この作品は、2016年に第13回本屋大賞を受賞しています。

ちなみに、この年の本屋大賞は、第2位が住野よるさんの『君の秘蔵を食べたい』、第4位が西川美和さんの『永い言い訳』、第9位が中村文則さんの『教団X』そして第10位が又吉直樹さんの『火花』です。これらの作品を抑えて受賞しただけあって“夢のように美しい”文体が綴れた小説でした。

小説の冒頭の書き出しは、

森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。
風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。
夜になりかける時間の、森の匂い。(中略)目の前に大きな黒いピアノがあった。
大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。
何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。
その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋が開いた森から、また木々が揺れる匂いがした。
夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。

ピアノの調律に魅せられた主人公が、調律師として、成長していく話です。
ピアノを調律する“音”を“匂い”や“夜の森”と表現します。
“目指す音”を、原民樹さんの言葉を引用して“明るく静かに澄んで懐かしい”
“少し甘えているようでありながら、厳しく深いものを堪えている”
と書いているそのままの“文体”です。
原民喜さんの原文は『砂漠の花』という随筆ですが、引用箇所の続きは、

…私はこんな文体に憧れてゐる。
だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。
私には四、五人の読者があればいゝと考えてゐる。
だが、はたして私自身は私の読者なのだらうか、
さう思ひながら、以前書いた作品を読み返してみた。

心をこめて書いたものはやはり自分を感動させることができるやうだつた。
私は自分で自分に感動できる人間になりたい。
リルケは最後の「悲歌」を書上げたときかう云つてゐる。
「私はかくてこの物のために生き抜いて来たのです、すべてに堪へて。すべてに。
 そして必要だつたのは、これだつたのです。ただしこれだけだつたのです。
 でも、もうそれはあるのです。あるのですアーメン」
かういふことがいへる日が来たら、どんなにいいだらうか。私も……。

恐らくは、宮下奈都さんご自身が、この言葉を自分に言い聞かせながら、
一文字一文字、一行一行、点や丸の位置までも気を配って、丁寧に“こつこつ こつこつ”と、
探しては書いて、探しては書いて、文字を連ねていった様子が伺えます。

才能があるから生きていくんじゃない。
そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。
あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。
もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。

小説が映像化されても、美しい旭川の雪景色や大雪山の深い森の映像や、
美しいピアノ演奏の音にも負けない、文体があることを実感することが出来ました。

もしかしたら、この道で間違っていないのかもしれない。
時間がかかっても、まわり道になっても、この道を行けばいい。
何にもないと思っていた森で、なんでもないと思っていた風景の中に、すべてがあったのだと思う。
隠されていたのでさえなく、ただ見つけられなかっただけだ。安心してよかったのだ。
僕には何にもなくても、美しいものも、音楽も、もともと世界に溶けている。

音楽だけでなく、美しい文体も、正しい生き方も、目指す道も、もともと世界に溶けている。
ただ見つけられないだけ。見つかるまで、焦らずに、こつこつ、こつこつと行けばいい。
それを気づかせてくれます。そして、身近に自分の先を歩いていく先輩が居ることが肝ですが。